Straw Dogs

人は誰しも暴力的衝動を内に秘めているのだろうか。どんなに穏やかな人でも、どんなに知性的な人でも。あるいは人は皆暴力的であるからこそ、抑制する術としての知性があるのだとしたら。
暴力性を全く持たない聖人のような人物は稀であり、自分自身を含む多くの人間は否定できない暴力性を多少なりとも持っている。きっかけさえあれば暴発する塊を。

わらの犬  HDリマスター版 [Blu-ray]

わらの犬 HDリマスター版 [Blu-ray]

衝撃的な作品であった。ストーリーも衝撃的な内容であり、緻密ですべてのシーンに無駄がない構成も衝撃である。これほどに完成度の高い作品は多くはない。そして俳優の演技も。ダスティン・ホフマンは迫真の演技で、嫌味なところはあるが穏やかで知的な男が狂っていく姿に、怒りとかなしみを伴いつつ観る者は自らを投影するだろう。
閉鎖された田舎の人間関係のいやらしさと、それによって発火した主人公の暴力性。身近な経験に重ねてしまうと、そんな解釈をしてこの作品を理解した気分になる。閉鎖的コミュニティのいやらしさはよく知っているから。
だが、単なる田舎のコミュニティに暮らすだけでは、悲惨な暴力に巻き込まれることはない。対立に至る要素が暴力を生んだ。その対立とは、アメリカとイギリス、進歩的な都会と旧弊な田舎、インテリの主人公と知性のない地元の男たち、女性に対して理解と対話で愛を示す主人公と暴力と性的魅力という力で押さえつける地元の男…、等、作品に登場するさまざまな要素による軋轢である。だが後者を育てた環境が舞台となったイギリスの田舎にあるのだとしたら、主人公夫婦が暮らしていたアメリカの都心部との対立が、悲劇的結末を生んだ軸といえるのだろう。加えて、男と女、夫と妻の対立も構造に含まれているのではないかと思えた。

以下、解釈込みの概要と感想を記す。解釈に違和感を抱いたとしても素人の意見と読み流していただければ幸い。(ネタバレを多く含みますからご注意ください)

主人公の物理学者デイヴィッド・サムナーは、妻のエイミーとともに、アメリカから、エイミーの実家があるイギリスの田舎に移住する。彼らが引っ越して間もない頃から、物語は始まる。デイヴィッドは、田舎なら落ち着いて研究ができると考えていた。故郷であるから、エイミーにも異論はなかろうと。地元の人たちはエイミーの昔馴染みである。
その昔馴染みの男たちに家の修理を頼んでいるが、男たちはろくでもなく、エイミーを好色な目で見る。エイミーはコケティッシュで70年代のアメリカヒッピー的な雰囲気のかわいい女性だ。この田舎にはそぐわない。スタイルの良さが露になるノーブラのタートルネック姿が、男をそそる。アメリカでは珍しくなくても、ここでは目立つファッションである。
男たちの中でもリーダー的なチャーリーは、過去にエイミーとつきあっていたことをにおわせる。デイヴィッドはエイミーに、昔の彼かと聞くが、エイミーははぐらかす。
このように、オープニングのほんの数分で多くの情報を提示している。イギリスの空気は陰鬱な雰囲気で、男たちは愚かで好色だ。エイミーの過去の人間関係を垣間見て、本当は戻ってきたくはなかったのではないかと暗示している。そして、ヘンリーとの再会。ヘンリーの姿を見て、彼は施設にいるはずではないかと、エイミーはおびえる。二人の間には、何かよくないことがあったのだろう(後のシーンで、村人がヘンリーが女の子にちょっかいを出すと言うセリフがあり、エイミーとのことを暗示している)。このヘンリーはのちに物語の流れを大きく動かすキーマンである。
デイヴィッドとエイミーは、エイミーが気に入った大型動物用の罠を車に運んでいる。その罠は家の壁に飾られる。二人が乗るのは白いオープンカー、アメリカの都会に似合ってもここでは浮いている。

夫婦が住むのはエイミーの実家だ。親はすでに亡くなっていることはエイミーの台詞でわかる。放置されていた家を、地元の男たちを雇って修理させている。インテリのデイヴィッドは肉体労働が苦手なのだ。そのような負い目があるせいか、男たちの妻に対する欲情に気づいてもデイヴィッドは何もしない。エイミーが文句を言っても、ノーブラで歩くな、と逆に注意する。エイミーは、デイヴィッドが修理をしてくれればあいつらを雇わなくていいのだと言うが、インテリのデイヴィッドにできるはずがない。デイヴィッドは、エイミーが雇えと言ったと、エイミーのせいにしている。
その様に小さな諍いをしても、二人は仲がいい。仕事の邪魔をされるとデイヴィッドの機嫌が悪くなるが、エイミーの子どもじみたいたずらに腹をたてても、本気ではないのだろう。むしろ子どもっぽさを愛おしんでいるようだ。
ときどき猫を探して、エイミーが退屈して喧嘩を売って、でも夜には仲直りをする。二人の仲の良さは微笑ましくあるが、エイミーに対する男たちの目つきや、夜の営みを覗き見る少女と兄、など、不穏な要素がちりばめられている。

村の男たちはデイヴィッドに対する反感をあからさまにする。男たちのエイミーへの思いは単なる性欲だけでなく、彼女は自分たちのものという意識があるのだろう。だからデイヴィッドに対しては俺たちのエイミーを奪われたという怒りがある。よそ者に感じが悪いのは若者だけではない。唯一、少佐と呼ばれる軍隊経験者だけがフレンドリーであり、酒場でデイヴィッドをかばい、村の人たちとの仲を取り持つ。
牧師も感じが悪い。デイヴィッドの家を訪ねて、寄付を奪い取るように受け取る。牧師はややインテリで学があり、デイヴィッドと対立する。牧師の妻は妙に美しいが知性はない。
エイミーの他の女は、牧師の妻と、ティーンエイジャーの少女しか登場しないのも象徴的である。他の男の妻たちも、年老いた母親たちも登場しない。村にいないはずはないのだが。登場する女はみな美しい。だが、いやらしい男どもも美しい牧師の妻に対して何もしないのが奇妙である。少女は下着が見えそうな超ミニスカートを履いて歩き、デイヴィッドは好色な目で彼女を見る。エイミーの子どもっぽい面が表すように、彼はこの手の少女が好きなのだろう。この村の女は挑発的になって男にいやらしい目で見られるか、牧師の妻になって性的なものと絶たれる二択しかないようだ。
件の挑発的な少女は、少年とよりそってデイヴィッド夫妻の寝室をのぞく。恋人のようによりそう彼は少女の兄であることが後にわかり、不自然な仲の良さに兄の妹への執着を感じさせる。村の男たちは性的に抑圧されているから、少年も妹に欲情するしか道がないのだろう。

研究を邪魔されたくないデイヴィッドは、退屈しているエイミーを邪険にする。エイミーは腹を立てて車で出かけ、運転席から降りる時に、スカートをまくりあげて伝染したストッキングを直す、その姿を屋根の上から修理中の男どもが見ている。その目つきにぞっとしたエイミーは、あいつらを追い出してと、いらだつ。デイヴィッドは聞き入れない。
シャワーを浴びる時にエイミーは窓を開けたままトップレスになり、男たちが見る。エイミーは隠そうともせず、挑発するように見返す。このときのエイミーの思いは、故郷に戻ったことで男たちのあからさまな昔のような性的な挑発に対して、ぶつけられる欲望に対して、しだいに自分の中におさえていたものが目覚めてしまうようだ。それが嫌でアメリカに逃げたはずなのに。だから戻りたくなかったと、いら立ちが目に見える。

ついに、猫がいなくなる。物語がはじまってから二人が猫を探すたびに、いつか殺されるのだろうと観る者に嫌な予感を抱かせていた猫だ。デイヴィッドが殺されてクローゼットにつるされた猫を見つける。エイミーに見せないようにしていたが、エイミーも見てしまう。あいつらがやった、あいつらを問いただして、猫を見かけなかったか聞くだけでいいと、エイミーは頼むのだが、デイヴィッドは男たちに茶をふるまい、仕事をよくやってくれたと感謝の言葉を述べただけだ。それはまるで、妻をレイプされたのにお礼を言っているような間抜けさがある。だが、エイミーにののしられ、デイヴィッドは彼らを追い出すことを決める。彼らにもう来なくていいと言うが、トラックで車をおいたてられる。男たちは、エイミーが欲しくてデイヴィッドを殺したいようだ。彼らの放つ痴呆的な狂気にデイヴィッドも怒りを募らせ、少しずつではあるが強い力を放出するようになる。

表面的に仲直りをしたデイヴィッドは村の男たちに狩りにさそわれる。銃の撃ち方をおそわって、一人で鳥を撃ちに行くが、それは罠だった。デイヴィッドがいない間にチャーリーがエイミーを犯した。エイミーは抵抗したが、性器を挿入されてチャーリーへの愛憎を思い出し、歓喜とかなしみに泣き、チャーリーを呼びながら達する。だが、そこへ例の男どもの一人が忍び込み、チャーリーを猟銃で脅してエイミーをレイプする。エイミーは抵抗して泣き叫ぶ。チャーリーは所在無く見ているだけだ。
同じ時にデイヴィッドは初めて鳥を撃ち喜ぶが、落ちてきた鳥を受け止め、我に返る。そして手についた血をふき取り、鳥を木の枝の間に置いて帰ってくる。自らの暴力性が嫌になって我にかえったようだ。
二人の内面が侵されていく。エイミーは文字通り犯され、デイヴィッドが保っていたインテリジェンス、文化的なものが崩されはじめていた。銃を手にしたことで始まった。
ここから物語は大きく進展する。ここまでの伏線が、後半に一気に雪崩れるようにほどかれていく。

デイヴィッドが家に帰るとエイミーはベッドにいた。気分が悪いと答えたが、レイプされたことは話さない。
数日後、二人は牧師の家でのパーティに参加した。そこにいた村の男の中に自分を犯した男を見たエイミーは気分が悪くなった。二人は車で家に戻ろうとする。
そのころ、件の少女がヘンリーを納屋に誘い込み、性的に誘惑する。だがヘンリーは嫌がる。このエピソードは、ヘンリーが自分から女を犯すことはないことを物語っている。彼は知能と心が子どものように素直で、悪い男ではないのだ。おそらく、エイミーもあの少女と同じように面白半分にヘンリーを誘惑し、それを見た男たちがエイミーが犯されたと、彼を施設に閉じ込めたのだろうと想像させる場面である。エイミーの陰険さ、性的に鬱屈した女の闇を見せる場面だ。
見つかると大変だとヘンリーは帰りたがるが、そこに彼らを探しに来た男たちの声が聞こえる。ヘンリーは少女をだまらせるつもりで強くおさえつけ、力を入れすぎてしめ殺してしまう。あわててヘンリーは逃げるが、二人がいないことに気づいた少女の父と、チャーリーと村の若者たちが探しまわる。逃げ出したヘンリーはデイヴィッドの車にはねられ、家に連れて行って介抱される。医者がいないかとデイヴィッドが酒場に電話をしたことで、ヘンリーの居場所がチャーリー達に知られてしまう。
ヘンリーを殺すといきまく彼らをデイヴィッドは制する。
デイヴィッドがなぜヘンリーをかばったのか。のけ者にされるヘンリーに、自分を重ねたのかもしれない。あるいはアメリカ人的な正義感かもしれない。そのヘンリーは、地元の男たちにとってデイヴィッドでもあった。エイミーがたぶらかした男として。または異質な存在として。それも感じとっていたデヴィッドが、ヘンリ―を無意識にかばったのかもしれない。ヒューマニズムだけではなく、一人の人間に大勢で向かう暴力の対象として自分を重ね、そして自分もまたエイミーにたぶらかされた男のように、惨めであったのではないか。

エイミーもヘンリーを引き渡すように勧めるが、デイヴィッドは拒む。男たちは執拗に彼らを追ってくる。家にカギをかけてバリケードをはってデイヴィッドは閉じこもる。殺しそうな勢いの男たちを止める少佐は、暴発した銃で撃たれて死んでしまう。少佐の死を前に男たちはさらに暴走する。籠城するデイヴィッドは、湯を沸かして家に侵入する男たちにかけるなど、家の道具を武器にして戦う。何人かの男たちはデイヴィッドにやられていく、デイヴィッドの戦い方は知性的で守り重視であったが、侵入してきた男たちに対しては容赦なく、次第に暴力に目覚めていく。猟を楽しんでいた時のように。
やがてチャーリーが入ってきて二人が争っていると、エイミーのもとにレイプした男が忍び込み、また犯そうとする。エイミーはデイヴィッドの名を呼び、次にチャーリーの名を呼ぶ。二人に助けを求める。今は敵であるはずの二人だが。戦っていた二人はともにエイミーの寝室に行くと、例の男がニヤニヤして、おれを殺せまいチャーリーと、それは秘密を共有した仲、レイプした仲じゃないかと言いたげな笑いを浮かべていた。チャーリーは迷うが彼を撃ち殺す。仲間であったはずの男を。彼なりのエイミーへの愛情をうかがわせる場面だ。

男を撃ち殺した後、デイヴィッドはさらに暴力にのまれ、狂気のままにチャーリーを激しく攻撃する。そこには、エイミーとのことを察した彼の激しい嫉妬と、そしてエイミーに対する怒りもあるのだろう。チャーリーはやがてエイミーが買った動物用のわなにかかる。デイヴィッドは銃を手にしていたエイミーにチャーリーを「撃て」とせかす。エイミーは、おびえて泣き叫び二人を交互に見ている。どちらを撃つのか。さらに「撃て」と激しい口調でせかされたエイミーはチャーリーを撃ち殺した。まるで、エイミーがわなをしかけてチャーリーをとらえて、殺したようだ。
これで、侵入した男たちは全員死んだ。混乱したエイミーは泣き叫ぶだけで自らの意思は消え、デイヴィッドの命令のままに行動した。あの場で、チャーリーとデイヴィッドを秤にかけて、より暴力性の強いほうに従ったようだ。そんな計算をする余裕はなくとも無意識でエイミーは支配されることを選んだ。田舎の暴力から逃げた、暴力的だったチャーリーから逃げたエイミーは、暴力的になったデイヴィッドの言うなりになった。
こんなふうになったのは、誰のせいか。田舎に帰ろうと言ったデイヴィッドなのか。男をふりまわしたエイミーの無意識なのか。
事がおわり、デイヴィッドはヘンリーを送ろうと二人で車に乗る。デイヴィッドの表情は不気味なほど穏やかだ。「帰り道を忘れた」というヘンリーに「それでいい、ぼくもだ」と答える。
それは、狩りの後で我に返ったデイヴィッドを思いおこさせる表情である。

映画はここで終わっている。


男たちが威張り、古くさい教会が唯一のインテリジェンスであるような村。その教会の集まりに出た男たちは、我慢していた力を暴発させてラストに向かう。
女たちも退屈して、いばりくさった男どもを性的に支配していたのだろう。アメリカに逃げ出したエイミーは、当時のアメリカのヒッピーの女の子のように洗練された。ここに戻らなければ、アメリカで知性的な夫と幸せに暮らすことができたはずだ。
田舎なら自分の研究ができる、田舎なら自分の生活できる場所があるのではと、田舎を知らない男の思い込みで、エイミーが拒んでもデイヴィッドはまともに聞かなかったのだろう。エイミーが反対をしなかったから戻ってきた、というようなことをデイヴィッドは言った。エイミーは頼りない夫を少し軽んじてはいたとしても、彼が暴力的になるとは思っていなかった。だがエイミーにとってそれは慣れた男の姿であり、依存するにふさわしい相手になったということである。皮肉な話だが。

暴力の快楽を知った人間がどこまでも暴力にのめり込む可能性もある。だが、ラストのデイヴィッドの表情は虚無であった。彼は自らの暴力性に嫌悪感を抱いたのではないか。
映画に描かれていないラストの先を想像するに、ヘンリーとともにどこかで命を絶ったと思う。まっとうな正義感を持つ知的な人間があれだけの人を殺して、我に返った時に、正気で生きていくことはできないだろう。