近況と感想

スカイウォーカーの黄昏

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け オリジナル・サウンドトラック(限定盤)



スターウォーズエピソード9「スカイウォーカーの夜明け」鑑賞後のショックから立ち直れない。好きなキャラクターが大勢死んでしまった、子どもの頃から愛してきた人たちが。ランド復活ぐらいでおさまる衝撃ではない。エピソード7でハン・ソロが、エピソード8でルークが、そして今作ではレイアと、そしてまさかのベンまでが死んだ、いや正しくはジェダイとして昇華したと言うべきなのかもしれないが、逝ってしまったのだ。ベンは生きるのではないかとわずかな望みを抱いていたが、スカイウォーカー一族は全滅させられてしまったのだ。なんという…。
鑑賞後数日は悲しみにくれていたが、今は「よくもやってくれたな」という怒りでいっぱいだ(製作サイドに対して)。

このシリーズの主人公のレイがとても好きだ。凛々しい眼差しと美しい立ち姿と戦う姿が素敵だ。まっすぐに走る姿も。ジェダイの資質とパイロット能力も。つらい境遇でもひねくれることのない良い性質も。ジェダイの血筋ではなくても天賦の才のあるジェダイとして、ルークの継承者としてふさわしいと思った。
エピソード8で他のキャラクターのストーリーがどんなにつまらなくても、ベニチオデルトロのように結局のところ意味がよくわからないキャラクターが登場しようと、レジスタンスがあまりにも弱くても我慢していた。それはひとえに、レイとベンとルークとレイアがいたからだ。彼らの物語に、スカイウォーカーの未来に期待していた。レイとベンが新しいジェダイの時代を築くに違いないと期待していたのだ。

今作ではまさかのパルパティーン復活、しかもレイは孫娘という安っぽいストーリー展開でも我慢した。そもそもパルパティーンは強いのか、死ぬときはいつもあっさりやられるじゃないか…そんな疑問も控え、いまひとつ恐ろしさが伝わらないけれど、それもまあ我慢した。レイがパルパティーンの孫と知っていても受け入れたレイアの大いなる愛はジェダイとしての無償の愛であり、そして母親としての愛でもある。敵の一族も受け入れる愛と赦しの物語である。そしてその大きな愛に見守られて、レイとベンが築くだろう次世代、それこそがスカイウォーカーの夜明けなのだろうと、イメージしながら鑑賞していた。
でもベンまで死んでしまった。レイアとハンソロの息子まで死んでしまった。こんな形でスカイウォーカー一族を根絶やしにされるとは思ってもいなかった。号泣。

「スカイウォーカーの夜明け」というタイトルであるからには、今後はレイが中心になった新ストーリーが展開するのかもしれないが、絶対見ない。レイは好きだけど嫌だ。劇場で公開したらもしかして見てしまうかもしれないが、テレビシリーズは見ないと誓う。
公式シリーズで死んだ人々は二度と帰ってこない(霊体としての登場シーンがあっても)。あるとしたら過去編だろうが、それよりも彼らの未来が見たかった。

冒険者たちの夜明け

昨年から動画配信サイトで、「ガンバの冒険」を見ている。
子どもの頃に見て本も読んだから内容は覚えていたが、それでもあらためて見てノロイの恐ろしさにおびえている。パルパティーンよりも恐ろしい。ノロイだけではなく猟犬や人間も恐ろしく、ネズミたちの目線で見た彼らの姿の描写が凄まじい。原作のノロイも恐ろしいのだが、アニメならではの絵や動き、音、すべてが視聴者の恐怖をあおる。特にノロイが発する音、鳴き声というか、喉を鳴らしているのか、とにかく不気味な音だ。ノロイの台詞以上に、その音がものすごく怖い。こんなに恐ろしくては、最終回まで見続ける気力が持つのだろうか。アニメ史上最恐の敵ではないか。こんなに怖い敵が出てくる作品は他にあったろうか。私には思いつかないのだが。

考えてみれば、最恐の敵と戦うのは、たいてい最強のヒーローたちである。パルパティーンと戦ったレイは、天性の力に加え訓練で強いフォースを身につけた。ヴォルデモートと戦ったハリー・ポッターも天性の魔法の才能を持っていた。そしてルフィにしても悟空にしても、生まれつきの強さに加え、敵と戦うたびに強くなっていった。だから、どんなに強い敵が出てきても安心して見ることができた。「大丈夫、ルフィがきっとやっつけてくれる」と。
でもガンバたちには、特殊能力はない。
ノロイとガンバたちには、圧倒的な体格の差、能力の差がある。そもそもネズミとイタチの差がある上に、ノロイはイタチの中でも飛びぬけて強い。魔力ではないかと思うほどに強い。ガンバたちがノロイ島に着いてから、毎回毎回ノロイにズタズタにされる。それでもガンバたちはめげない、決して絶望しない。観ている私は、あのちいさなネズミたちを思って泣かない日がない。
悪魔のようなノロイの赤い目、しなやかで敏捷な身体、長くしなる爪。ネズミたちがかなうはずがない。
そんな化け物に、ガンバたちは勇気と知恵と団結力で抗うしかない。ちいさなネズミたちの勇気を称えながら、最終回まで見届けるのだ。

いつ頃からか、私のツイッターのタイムラインに一人で行動するたちをディスるツイートと、それへの反論RTが流れてくるようになった。一人で行動する人はナンパ待ちというひどい決めつけや、未婚の人には単独行動が非婚化の原因だとか、既婚の人には結婚しているくせにどうして一人でいるのか、家族を放っておいていいのかとか、難癖コメントまでついていた。テレビの特番など、議論のきっかけとなる出来事があったのだろうか。
流行に疎い私はいつからそんな意見が飛び交っているのかわからぬまま、なんか変な流れ…と思いつつも、しょせんはツイッター、どうせこれもネトウヨ連中の仕業だろうと、深追いするまでもなく読み流した。有識者の反論も、単独行動に軍配が上がっていたし。

だが、ネットではないリアル世界でも同時多発的に単独行動をいじられることが増えて、いささか不穏な空気を感じるようになった。
今までは一人で出かけた話をすると、「変わってるね」と言われるか、妙に同情されて「今度は一緒に行こうよ」などと誘われる、その程度の反応だった。それが、笑われるようになった。しかも、昔の話を蒸し返して笑うような、もってまわった反応をする人が増えた。「あの時、あなた一人でライブ行ったんだよね(くすくす)」「そういえばあなたヒトカラ行くんだったよね(ゲラゲラ)」「よくまあ一人で(体を折りたたんで爆笑)」など。以前は聞き流していた行動を、わざわざ蒸し返して笑う。その魂胆はなんだろう。
面と向かって「人の行動を笑う」ことは、「あなたのしていることは変である、恥ずかしいことである」と強調するマウンティング行為だが、もとは笑うほどでもない行動や容姿などを笑っておとしめる時に使うようだ。例えば「なんでそんなに稼いでるのゲラゲラ」「なんでそんなにきれいな服着てるのゲラゲラ」みたいに、むしろ、自分より相手が優位なことを笑って蔑もうとする。
つまり、彼ら彼女らは私の単独行動に対してわざわざマウンティング行為をしなければ、貶めることができなくなったのである。以前のように「変わってる」「寂しそう」では済まされない、何かに気づいたのである。
なぜ今になって、一人でいることについて難癖をつけはじめたのか。
世間にようやく、一人でいることの効能が、広まりはじめたのかもしれない。
今までは単独行動をする人は寂しい人、友だちがいない人で、「ボッチ」などと呼んで馬鹿にしていたのに、実は一人でいることを楽しんでいるらしいと気づいた人たちが、危機感を抱いたのではないだろうか。
単独行動をすることで、群れていては得られない「特別ないいこと」を味わっているんじゃないか。ずるい…などと思う人が出てきたのかもしれない。

孤独をすすめる本がベストセラーになるなど、一人でいることの効能をうたい、無理に人に合わせて生きることはない、そんな思想が広まり始めている(そもそも単独行動ができる人はそんなことはとっくに知っていた)。誰かと一緒にいることしか考えていなかった人たちにとって、青天の霹靂だろう。思いのほか孤独が自分に合っていると気づいた人たちは、一緒に行動していた仲間から離れて行く。一方で、どうしても一人で行動できない人たちからすれば、一人でも平気な人たちが妬ましいし、今まで仲良く一緒にいた人が離れてしまう寂しさもある。
そんな流れがあるのかもしれない。

私を笑った人たちの言動から、彼らがなぜ単独行動する人を馬鹿にするのかを、考えてみた。
・上に書いたように、一人でいるといいことあるんじゃないか、一人でずるい、という損得勘定とやきもち。
・一人で出かけるなんて水臭いじゃないの、一緒に行きたいと言いたいが、ストレートに言えないタイプ(ある程度親しい人の反応に限る)。
・自分には仲間がいて、仲間で行動することの楽しさを確認するための比較対象として、バカにする。本心では仲間といてもあんまり楽しくないのだが、一人でいるよりはいいわよねえ、と自分自身を暗示にかけている。
・一人でいるいないにかかわらず、楽しそうな人をすべてディスる
・自分がしない行動はすべて奇妙に見える。
こんなパターンが思い当たった。

もともと単独で行動している人たちはそれが好きかどうかを意識したこともない、ごく自然な行動なのだから。単独行動が苦手な人でも料理の買い出しは一人でするだろう、そのようなごく日常的な行動なのである。(中には買い物も一人でできない人もいるかもしれないが)
既婚者でも単独行動はする。むしろ家で一人になれないから、既婚者はあえて一人で出かける。家族の意思を尊重して興味のない分野なのに無理に連れて行くことはしない。それに、なんにでもイキる配偶者と同行するのはうっとうしいなど、様々な理由による。
そういうことを無意識のうちに判断したうえでの単独行動だが、実際はごくごく自然に行動している。息をするように。

一人で行動できない人は、見たいライブがある時や、美術館や博物館に行きたい時に、どうやって行くのだろう。無理やり興味がない人を誘うのだろうか。興味がない人との旅ほどつまらないものはないのに。せっかく好きなミュージシャンのライブやアーティストの展示に行っても、興味のない人は仕事の愚痴や悪口などを延々と繰り返す(これ経験あるけど地獄だった)。そんな話をしない常識的な友人であっても、趣味が合わなければ同じ話題で盛り上がることはできない。

あるいはSNSなどで同じ興味の人を探して一緒に行くのだろうか。SNSに登録して、タグなどで同じ興味がある人を見つけて、その人をフォローして、ある程度のやりとりをして人間性を確認して…。なんて手間がかかるのか。そんな時間があるなら、さっさと一人で行って楽しんでくればいいのに。
それでも一人で行くのはつまらない、寂しいと思う人は、色々な方法で誰かを誘っていくだろうし、その過程もまた楽しみであるのだろう。
行動パターンも人それぞれ、異なるのは当然である。いちいちディスることはない。

単独行動を笑われているだけならまだしも、悪いことのように責められる社会に、団体行動を強要する社会にならないとよいのだが。でもそんな社会は戦前の日本に似てはいないか。戦前回帰を目指す政治家の多い今の時代ではリアルに起こりうるから恐ろしい。

遠い銀河の物語

スター・ウォーズの劇場公開シリーズを、少しずつ鑑賞した。
製作順に、エピソード4、5、6、1、2、3、「ローグ・ワン」、「ハン・ソロ」の順で見た。
続編二作は新作を観る前に見直しておこうと思う。

ハン・ソロ」以外の作品はすべて上映時に映画館で鑑賞した。特にエピソード4~6はリバイバル上映なども含めて数回見ている。スター・ウォーズ三部作として、思い入れがある作品である。エピソード1~3を否定しているわけではない。ダース・ベイダーの過去は興味深く、特に上映当時は新しいCG効果もあって迫力が増し大変楽しんで鑑賞したのだが、あらためて見ると不満もある。
うっとうしい思い入れをなるべく減らして、久々に見た感想を、ざっくりと記していこうと思う。どうしてもネタバレを避けられないので、ご注意ください。

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Yesterday


音楽映画は曲が良ければ、たいていの作品は面白く観られる。これもその手の作品だろうけど、ビートルズの曲を劇場で聴ければいいや…、なんて気持ちで鑑賞したのだが、それが、予想以上に面白かった。
全編を通してビートルズへの愛に満ちていた。監督、脚本など、作品に携わった人たちのビートルズへの愛を感じた。
以下、あらすじ含む感想を記す。ネタバレ注意。

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「戦争と日本」について

お盆休みには戦争に関する本やコミックを読み、録画してしいたドキュメンタリー番組を見て過ごした。水木しげるの戦争短編集も通して読んだ。

その中に、「戦争と日本」という作品がある。「笑ってすまされない、近所迷惑への反省」とサブタイトルがついている。

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The Mule

クリント・イーストウッドの監督・主演作品である。監督作品は短いスパンで公開が続いているが、主演は2008年の「グラン・トリノ」以来である。「グラン・トリノ」では老境にありながらも若いギャングたちに挑んでいたが、今作は自らに戦いのシーンはなく、同年代の老人役を飄々と演じていた。クリントの愛くるしさだけでも十分に見ごたえがあるが、当然それだけの魅力にとどまらず、ストーリーもすばらしく、特に家族の愛情が深く描かれ、関係する人々への優しさやいたわりに満ちて愛にあふれる作品であった。特に妻の死を看取るシーンは圧巻で、妻のメアリー役のダイアン・ウィーストの演技力も相まって、二人の思いが蘇り、正しくは蘇るのではなく潜んでいたというべきだろうか…、かつては憎しみが勝ったその愛情が返り咲いて昇華する悲しくも美しい死の際の場面に涙を禁じえなかった。
2018年にクリントの内縁の妻だったこともあるソンドラ・ロックが癌で亡くなったが、その影響もあるかもしれないと思った。

以下に概要を記す。ネタバレを含むので注意していただきたい。4月に劇場で鑑賞した際の記憶をもとに書いたので、記憶が薄れかけている点もお許しいただけると幸い。大きなミスはしていないと思う(おそらく)。

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